オープンカフェ

ある夜、渋谷駅前の青いコンビニで、白い缶のセゾンビールとBLTサンドイッチを買って、店の前の踊り場的な空間で飲食した。

うまい。250円でこんなうまいビールにありつける。400円の高級サンドイッチは優しい味付けできめ細かい口どけ。

眼前の歩道は広い。今夜は雨が過ぎて涼しい。

道端でこうして飲みながら誰に注目もされずただ過ごしていると、クロアチア首都ザグレブでの日々を思い出す。日本ではまずできないオープンカフェ

いまここは、私ひとりしかいないが、想像では閑散としたカフェの路面座席の一角。白い皿にサンドイッチ、透明ながっしりとしたグラスにはビール。

あぁこの想像を実現しているのはこの両足。まっすぐと安定して快適に立っていられる健康よ。

刹那の幸せと儚い幸せを噛み締めながら、さっとくつろぎゴミを捨てて、私は家へと歩きだした。

コーヒーとビールのブーム終焉によせて

あくまでマイブームの話だ。

コーヒー市場は拡大した。手軽にコンビニコーヒーが飲めて、チェーン店は安く美味しく常に混雑。ボトル缶はタリーズが衝撃的、他もそれに似せて追従している。

その5年間、私は何杯のコーヒーを飲んだことだろう。

信条がある。フルーツとコーヒーは喧嘩するという。特に柑橘系はよくない。そのためコンビニで軽食を買った際、バランス考えればトマトジュースかグレープフルーツジュースあたりが適当なところ、『食後はコーヒー飲みたいな』と思いそれを我慢し、結局食べながらコーヒーという状態になる。本当は食事中はコーヒーはイマイチだと思っている。読者の中には『お茶とコーヒー、水とコーヒーを買えばいいじゃない』と思う方もいるだろう。そのパターンだとドリンク多過ぎ問題勃発。飲みきれていないボトルを持ち歩いて捨てることになる。色々の妥協点でコーヒーを買う。そのときタリーズの大きなボトル缶の容量が最適で、これはちゃんと食後のコーヒーまで行き渡る量だ。

そしてコーヒーを飲み過ぎた。ある頻度を超えて100回も洗われた胃腸は少し疲れがちで、カフェインは効果よりも欠乏が気がかりになり、たぶん体臭口臭が強まった。

これはいかん、このままではあかん、という切り換え機能が私にはある。今朝はそんなわけで肉まんとアップルジュースを朝の軽食にした。

ビールはたくさん飲めるようになった。以前はあの苦さがとにかく苦手で、もらいものも長く冷蔵庫に眠らせていたものだが、むしろその行為がビールの鮮度を落として苦くつらくしていたのではないか。

世はクラフトビール天国、ブリュワリーも点在。タップだのパイントだの耳に心地よい言葉と共に、禁煙の潮流もそれを後押し。

私は好みの品目を見つけ、ひいきの会社を決め、毎日のように飲み飲み、冷蔵庫にビールが無いと不安になるほどだった。

なんとなく、ビールの幅や深さが見えてきた今は、楽しみながらもどこか冷めている。変り種も含め未知の味覚にはいくらでも会える中で、まぁ基本ビールの枠内での出来事だしその枠を超えたらキワモノだし、ただの飲み物に一喜一憂するのもねえと。日々の晩酌もわりとどうでもいいと思えてきた。飲みたいかどうがで決める、惰性で飲まない、となった。

コーヒーとビール。これからもぼちぼちよろしく。

ホームラン軒まずくなった

小学生の頃、スーパーカップが糞マズく、カップヌードルには『ラーメン感』が足りないし…という中で友達で話題だったホームラン軒

食べてみたら本当に美味しくてびっくりした。当時は珍しいノンフライ麺の素晴らしさ。

 

そして今日、スーパーで60円で投げ売りされていたホームラン軒の『台湾混ぜそば』を食べてみた。

もうね、加薬の袋を開けた時点でアレって思ったが案の定、おいしくない。

 

メーカーの加ト吉は2007年からの一連の不祥事発覚によりひらひらと舞い、今はテーブルマークという社名になった。

もはやホームラン軒も名前だけ続いているが中身は全く別物だろう。

 

全然おいしくないし損したくらいの気持ちなんだけど、少しだけ懐かしい。最近のカップラーメンは美味すぎて、王道も邪道も極まっている感じがする中でのこのホームラン軒よ。あの頃はわりとよくあったハズレをひいた感じを思い出せる。

 

 

学閥争いや国家間の競い合い

うちの親父は明治大学出身で、箱根駅伝を毎年欠かさず観る。

やれ明治が何位だった、早稲田より上だ下だ、去年はどうだった、と、とにかく明治大学の順位に一喜一憂する。

私はただそれを『学閥の感覚かな』と思っていた。不思議ではあるが、明治大学早稲田大学よりも何かの分野で秀でると、明治大学出身者は早稲田大学出身者に対してデカイツラをできるのだろう。

 

長征5号の打ち上げ成功に打ちひしがれるクラスタもそれに近いものを感じる。

長征5号打ち上げにどよめく宇宙クラスタとその技術的解説のまとめ - Togetterまとめ

 

中国をライバル視して、ありとあらゆる分野で日本が勝っていないと気が済まないようだ。

単に『中国の宇宙技術スゴイ』じゃいかんの?

他を認められない人は自分だけは他に認められるとでも思っているのだろうか??

 

帰属意識と敵対心、みたいなものは世界から消えるとは到底思えない。このブログも、共感する人は「そうだよね」だし、しない人は「はいはい」だろう。

 

どのレベルの帰属意識を重視してもいいが、自覚はまず大事で、立場を説明できることも相手の理解の助けになる。

そして、自分の立場を絶対だと思わないこと。大学の学閥争いは、国家間競争では消し飛ぶし、国家間の憎しみ合いを競技の世界に持ち込んだらズレている。

 

それでもあえて切磋琢磨のためにライバルとの競争をクローズアップする方法論は興味深い。みんな違ってみんな良い、では根腐れするだけなので、競って争って弱肉強食 敗者淘汰されたほうがその分野は成長していく。

その中で完全に洗脳されて兵士のマインドになってしまう人が出て、後々まで苦しんでいるのだろうかと思う。

天然たい焼き

鳴門鯛焼き本舗さん

天然たいやき!鳴門鯛焼本舗

 

ここのたい焼きが本気でおいしい。

たい焼きといえば、アナの空いた鉄板で大量生産される、マジで戦後からバブル時代を象徴するようなどーでもいいモンだった。もちろん谷根千あたりを筆頭に有名店はあれど、そこらの店には期待できないものだった。

大判焼きは味のバリエーションで善戦しているがたい焼きはただの型で焼いたアレだった。

そんな中、鳴門鯛焼き本舗は颯爽と現れ、たこ焼き界の銀だこのように一気にスターダムを上り詰めた。

 

と適当ふかしましたが、本当に美味しい。

「たい焼きを頭から食べる?尻尾から食べる?」

という質問はこれに出会うまで全く意味を成さなかった。なぜなら頭も尻尾もただの模様であって均質だったから。

鳴門鯛焼き本舗のたい焼きは、尻尾は薄くてクリスピー度が高く、本体はずっしりあんこに薄皮の旨さの黄金比

だからこそ好みが分かれうる。

 

こういう伝統の味の発掘や再発明みたいのはイイね。

【ネタバレあり】映画バッファロー66 の最後

この映画は私にとって長く寝かしたものだった。2003年頃、同僚に「バッファロー66は観るほうが良い。最後にね、ものすごいどんでん返しがあるんだよ」と興奮気味に言われ、「っオーイ!どんでん返しがあるってことを知っちゃったら観る意味無くなったわ」とお蔵入りしたのだった。

今になれば、脳の構造の違いなのか『ネタバレしてても100%楽しい』というタイプの人が世にはいることが理解できるので、同僚の行為は水に流し、初めてバッファロー66を観るに至った。

さて、ここを読んでいる方の大半はすでに観た方だろう。その前提で私の疑問を聞いてほしい。

荒んでいた主人公が、最後に心を入れ替えて、ウキウキしながらドーナツとココアを買って愛する彼女の元に向かうシーンがある。

あの瞬間、私は『フラグだ』と思った。

この展開は、このあと主人公は彼女に会う前に不運な事故に遭い亡き者になり、彼女には主人公が改心したことが伝わらないというやつや!と、私は思ったのだ。

あぁ悲しいなぁ。なんでそういうやりきれない最後が描かれるんだろう。私は主人公を看取るような憐れむような気持ちで観ていたが、主人公はあっさり部屋に戻り彼女に添い寝して愛でるシーンで物語が幕となった。

まじか。

よかった。

さて、私にさんざん刷り込まれた、『主人公が改心しすべてが順風満帆になったとたん主人公が死ぬ』という結末はいったい何なんだろう?

岡崎京子の漫画にあったような気がする。あの時代の物語はどこかで足元が崩れ落ちて怪我をするものが多かったと思う。

そういえば、2000年代になり黒田硫黄の『茄子』を読んだ時にも、似た経験があった。

男女が山中で迷い、一軒家を見つけるだなんて、いかにも『このあと理不尽な不幸に巻き込まれるんだろうなぁ』な展開なのに読み進めたらハートフルであったという。

本来の物語はかくあるべきで、90年代の世紀末感が異常なだけだったのかなぁ…

 

東京でヨガを続けるのが難しい理由

またライフサイクルの中で、いくつかのチャクラが開き、自浄作用が働いて、若い自分が息を吹き返したのを感じた。

 

ヨガを一時、徹底的にやった経験は、そこから離れてもたまにこうして私に教えをくれる。

 

うーーーんと背伸びをして、左右に広がったものを真ん中で束ねて、すっと立てる…。足先。つま先と土踏まずとかかと。柔らかく地を踏もう。

 

右膝がパキッと一度鳴って、正しい位置に戻った。上体の前後もすんなりとあるべきバランスに。

 

そして軽く柔軟。

 

さて、一日がっつりと仕事をして、夕飯はコンビニであっさり麺とゆで卵と豆サラダを食べた。帰りの電車で音楽を聴きながら耳を澄ます。電車の駆動音、人のささやき、イヤホンのインストゥルメンタル、目をつむったままあるがままを感じる至福の時。

 

そこにツンと臭い。近くに若い男の背中が来た。左の人からはわずかに甘ったるい臭い。

 

香料を調合する仕事の人は地下鉄は臭くて乗れないらしい。臭いは粒子。ホコリも粒子。呼吸とともに身体に入ってくる。

 

これはシャットアウトだ。感覚を少し鈍らせないとやり過ごせない。

 

そうして私は、意識を狭め、呼吸を潜めて時を過ごしつつこれを書いている。

 

こんな時間を朝晩と過ごさなくてはならないのだから、まったくもってヨガを健全に続けられる気が失せてしまう。

 

やるならば、セッティングのできる自室でのわずかな時間だけになるかな…